東京都交響楽団

Essay

「鏡」としてのヴィヴァルディ《四季》

矢澤孝樹 Takaki YAZAWA(音楽評論)

ヴィヴァルディ(古川展生編曲):協奏曲集より
(都響メンバーによる室内楽トークコンサートVol.10《チェロ・アンサンブル》/ 2012年2 月12日/東京文化会館小ホール)
〔チェロ協奏曲ヘ長調RV.410「アレグロ」、ヴァイオリン協奏曲変ロ長調RV.383「ラルゴ」、チェロ協奏曲ヘ長調RV.411 「アレグロ・モルト」を編曲して1つの曲として並べ、合奏協奏曲のスタイルをチェロ・アンサンブルで実現。21 世紀の 自由で多様なヴィヴァルディ受容の一例〕

序:《四季》は賞賛され、忘れられ、そして蘇った

 ヴィヴァルディの《四季》がこの作曲家の「最高傑作」かは議論の余地があるかもしれないが――《調和の霊感》、フルート協奏曲集op.10、その他無数の協奏曲、オペラ、宗教曲と山のように傑作がある――、《四季》が「最大の発明」であることは疑いない。ヴィヴァルディ自身が牽引した独奏協奏曲の定型(「急-緩-急」の3楽章構成、急速楽章のリトゥルネッロ形式など)を4曲の協奏曲に用いつつ、四季を描写したソネットに内容を対応させるという、いわば「標題協奏曲」の試み。標題音楽はそれまでも存在したが、かくも見事に協奏曲を当てはめた例はかつてなく、《和声と創意への試み》op.8という12曲の協奏曲集の冒頭を飾るにふさわしい。
 《四季》のユニークな点のひとつに、18世紀の大ヒット作となったにもかかわらず、協奏曲における後継作が生まれなかったことがある。すなわち「標題協奏曲」となるが、もともとヴィオラ協奏曲のはずだったベルリオーズの交響曲《イタリアのハロルド》やリヒャルト・シュトラウスの二重協奏曲的な交響詩《ドン・キホーテ》など、例外的なケースにとどまる。《四季》は孤高の作品だったのだ。そして《四季》は19世紀にいったん忘却されたのち20世紀に蘇り、自らの形姿を無限に変容させることになった。

1.《四季》の復活と「室内管弦楽団」の時代

 《四季》復活と変容の歴史を、録音史を主体に振り返ろう。ドイツが自国の音楽的アイデンティティの象徴としてヨハン・セバスティアン・バッハを称揚したように、イタリアはヴィヴァルディを再発見した。第一次世界大戦(1914~18)後、ムッソリーニ率いるファシスト党が台頭する時代だ。未知の作品の発見や研究も進む中、2台ピアノ用の編曲版が出版され、1927年にはベルナルディーノ・モリナーリが校訂版(編曲に近い)を出版、ムッソリーニに献呈する。公式の世界初録音は1942年、そのモリナーリ指揮によるサンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団によるもの(ただし1939年にアルフレッド・カンポーリが私的に録音している)。かなりの大編成で、《冬》の第2楽章がソロと合奏で旋律を反復するなど、同時代のレスピーギによるモンテヴェルディ『オルフェオ』のオーケストレーションを思わせる「古楽の現代化」が興味深い。ソリスト不明だが演奏も重厚ながら躍動感がある。
 一方録音こそないが、アドルフ・ブッシュやパウル・ザッハーらイタリア以外の音楽家も室内管弦楽団による《四季》演奏に乗り出している。こうした動きには新古典主義や新即物主義の影響もあろう。
 第二次世界大戦(1939~45)後になると、イ・ムジチ合奏団が《四季》をメジャーにしたイメージがあるが、それに先立ってルイス・カウフマン独奏ヘンリー・スヴォボダ指揮コンサートホール弦楽オーケストラ(1947)、ラインホルト・バルヒェット独奏カール・ミュンヒンガー指揮シュトゥットガルト室内管弦楽団(1951)などが先行してヒットを飛ばす。とはいえイ・ムジチ合奏団の2枚のフェリックス・アーヨ独奏盤(1955, 59)のベスト・セラーが《四季》人気を全世界的にしたのは事実で、レナート・ファザーノ指揮ローマ合奏団やクラウディオ・シモーネ指揮イ・ソリスティ・ヴェネティらも並行して《四季》を活発に演奏、録音し、《四季》はいわば敗戦後のイタリア再生のシンボルのひとつとなった。さらに他国からパイヤール室内管弦楽団やポール・ケンツ室内管弦楽団なども加わり、《四季》はイタリア・バロックの枠を超え「室内管弦楽団によって流麗に演奏されるバロック音楽の理想像」としての地位を獲得した。一方でオーマンディ、カラヤン、ストコフスキーらが大編成でゴージャスに迫る録音も登場したが、演奏の基本スタイルは前述の室内管弦楽団による演奏とそう遠くはない。

2.ピリオド楽器演奏の時代

 この傾向に激変をもたらしたのが、1977年のアーノンクールとウィーン・コンツェントゥス・ムジクスによる録音だ。ピリオド楽器(当時は古楽器、オリジナル楽器と呼ばれた)によるが、彼らが初の試みではなく、先行録音としてヤープ・シュレーダーとアムステルダム合奏団(1970)があった。しかしアーノンクールは、音楽による描写をバロック修辞学の反映と解して徹底的に読み込み、衝撃的なまでのドラマ性を引き出し、《四季》の前衛性を際立たせた。
 この盤は賛否両論沸騰するが、以後ピリオド楽器による録音がシギスヴァルト・クイケン指揮ラ・プティット・バンド(1979)、トレヴァー・ピノック指揮イングリッシュ・コンサート(1976, 81)、クリストファー・ホグウッド指揮エンシェント室内管弦楽団(1982)など陸続と登場する。これらはアーノンクールの過激さをいくぶん中和し、ヴィブラート少なめの弦の響きで爽快に《四季》を聴かせた。アーノンクールの拓いた表現はむしろ最初は、モダン楽器演奏側にとっての突破口だったかもしれない。ナイジェル・ケネディ&イギリス室内管弦楽団(1986)、ナージャ・サレルノ=ソネンバーグ&セント・ルークス室内管弦楽団(1990)など強烈な主張に満ちた演奏だ。
 1990年代に入ると、成熟しつつあったイタリアの古楽演奏が新しいムーヴメントを巻き起こす。ファビオ・ビオンディ&エウローパ・ガランテの録音(1991)がその起爆剤となった。アーノンクールのドラマ性と、イタリアの母音の響き、豊かでよく歌う弦の響きが疾走感の中で結合したのである。これにハードコアなエンリコ・オノフリ&イル・ジャルディーノ・アルモニコ(1994)が続く。さらにジュリアーノ・カルミニョーラ&ヴェネツィア・バロック・オーケストラ(1992)、カルロ・キアラッパ&アカデミア・ビザンチナ(2000)、フェデリーコ・グリエルモ&ラルテ・デラルコ(2001)など、いずれも血の濃い録音が続々と登場し、《四季》像は完全に更新された。

3.HIPそして多様性の時代へ

 こうした状況の変化は、従来のモダン楽器による《四季》演奏に大きな問いを突きつけることになる。大オーケストラによる演奏は下火になり(都響が主催公演で《四季》全曲を取りあげたのは、今回2024年4月以前としては1991年7月までさかのぼる)、代わりにHIP(Historically Informed Performance=歴史的情報に基づく演奏)の手法により、バロック時代の奏法を取り入れ、より明確でクリアな音像を目指す演奏が増えてゆく。イ・ムジチ合奏団はその象徴で、この団体は1955年以降実に9回録音しているが、1995年の6回目以降はHIPの色彩が回を追うごとに強くなり、それを従来の「イ・ムジチの弦」の更新に用いている印象だ。後述のペッカ・クーシスト&ヴィルトゥオージ・ディ・クフモ (1999)、およびチョーリャン・リン&セジョン(2005)などもわかりやすい例だろう。
 このように《四季》の歴史的布置と基盤が共有されることは、むしろ多様な演奏の可能性の開花へつながった。21世紀以降の《四季》像は驚くほど多彩だ。マンチェスター稿、管楽器入りのドレスデン稿などの異稿録音はもとより、独奏楽器をリコーダー(エリック・ボスグラーフ)、フルート(アンドレア・グリミネッリ)、トランペット(オッタヴィアーノ・クリストーフォリ)、チェロ(ルカ・スーリッチ)、ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラ(シギスヴァルト・クイケン他)、マンドリンとアコーディオン(ヤコブ・ルーヴェン&オメール・メイア・ウェルバー)などに置き換えた例、ジャズ化(ローマ・トリオ)、2台ピアノ編曲(フェルハン&フェルザン・エンダー)など編曲の試みは無数にある。約40年前の録音だが、ロココ期フランスの田園趣味にスライドさせたコンラート・シュタインマンらの『ルイXV世風「四季」』(1982)もあった。
 他の時代の作品と対比させるのも近年よく見られる傾向だ。その嚆矢はギドン・クレーメル&クレメラータ・バルティカ『エイト・シーズンズ』(1998)となろう。ピアソラの《ブエノスアイレスの四季》と組み合わせたプログラムはジャンルまたぎで両者が呼応し合うスリリングな趣向で、好評を博し他団体にも普及した(たとえば前述のヤコブ・ルーヴェン&オメール・メイア・ウェルバー)。またリッカルド・ミナージ&ラ・シンティッラ(2019)はヴェルディ『シチリア島への夕べの祈り』からのバレエ音楽「四季」を組み合わせ、HIPだからこそ可能なスタイルの描き分けと比較を可能にした。このプログラムはイ・ムジチの9回目の録音(2021)にも受け継がれている。また、エンリコ・オノフリ&イマジナリウム『Into Nature』(2018)は《四季》に、それ以前の描写的作品(ジャヌカン《鳥の歌》やウッチェリーニ《異種混淆:雄鶏とカッコウによる麗しき奏楽》など)が組み合わされ、歴史的背景からの《四季》誕生を描く。演奏も、かつてよりいっそうしなやかに洗練された、ピリオド楽器演奏の新次元を達成している。
 一方でルノー・カピュソン&ローザンヌ室内管弦楽団(2022)やアラベラ・美歩・シュタインバッハー&ミュンヘン室内管弦楽団(2018)のような「ネオ・ロマン派」と評すべきモダン演奏も増えており、前者はサン=ジョルジュのヴァイオリン協奏曲、後者はピアソラの《ブエノスアイレスの四季》とカップリングにも工夫がある。同傾向の木嶋真優(2020)の併録曲はなんと秋元康&伊藤心太郎《恋するフォーチュンクッキー》だ。そしてマックス・リヒターが「リコンポーズド」した《四季》(2012)は、テクノ・エレクトロニカ系などこの曲をさらに他ジャンルや未来に向けて開く扉だろう。

 こうして振り返ると《四季》は前世紀からの演奏史、各時代の美意識を映す「鏡」の役割を果たしてきた稀有な1曲であると感じられる。そして多様性の時代にひとつ抜けがあるとしたら、近年めっきり減った交響楽団による演奏だ。今回の都響公演で《四季》を独奏・指揮するクーシストは以下に紹介する1990年代の録音のほか、フィルハーモニア管弦楽団と「Vivaldi: The Four Seasons, with improvisation between movements」と称する演奏(2021年11月28日)を行っている。楽章間に即興を入れているということになるが、今回、ベートーヴェンの交響曲第7番と組み合わされる《四季》はどうか。交響楽団が演奏する《四季》にいかなる新たなフェーズがもたらされるか、期待しよう。
CD
【CD】
ヴィヴァルディ:四季

ペッカ・クーシスト(指揮・ヴァイオリン)
ヴィルトゥオージ・ディ・クフモ
〈録音:1999年5月〉
[Ondine/ODE939-2](海外盤)
* HIPを早い段階で導入していることで注目されるが、ヴィブラートを抑制したクールな空気感が「北欧の四季」という印象で、今聴いても非常に新鮮な演奏だ。本文で書いたフィルハーモニア管との演奏は民俗音楽的要素を導入しているようだが、当盤にもチェンバロに一部リュート・ストップを用いるなど、「兆し」がある。