東京都交響楽団

Essay

尾高忠明の英国音楽遍歴

等松春夫 Haruo TOHMATSU(政治外交史・比較戦争史/政治と音楽)

エルガー:交響曲第2番(第976回B定期/2023年5月29日/サントリーホール)
©Rikimaru Hotta

◆ パウロの回心

 「なんてつまらない曲だ。こんな作品は指揮したくない」。かつてこのような趣旨の発言をした著名な指揮者がいた。「つまらない曲」とはエドワード・エルガー(1857~1934)の交響曲第1番、「著名な指揮者」とは尾高忠明氏である(以下敬称略)。30余年後、その尾高は「英国音楽の使徒」に変容していた。いまやエルガーの交響曲第1番は尾高の十八番中の十八番。「つまらない」「演奏したくない」はずの作品を何と4度も録音①、実演でもおそらく世界でもっとも多くこの曲を指揮している現役指揮者である②。英国の音楽界への貢献で1997年にエリザベス2世女王(1926~2022/在位1952~2022)から大英帝国勲章(Commander of the British Empire; CBE)を、エルガー振興の功績により1999年には英国エルガー協会から由緒ある「エルガー・メダル」を授与された。
 1992年8月18日のサントリー音楽賞受賞記念演奏会ではメインにエルガーの交響曲第1番を据え、アンコールには同じ作曲家の《エニグマ変奏曲》中の白眉である第9変奏「ニムロッド」を演奏した。オーケストラは1974年から91年まで尾高が常任指揮者を務めた東京フィルである。1908年、エルガーの交響曲第1番初演に際して巨匠ハンス・リヒター(1848~1916)はハレ管弦楽団の楽員たちに「諸君、当代随一の交響曲を演奏しようではないか」と呼びかけた。尾高も現在はリヒターと同じ考えなのではあるまいか。
 あたかも「パウロの回心」である。エルサレムからダマスクスへの途上でキリストの声を聞き、パウロはキリスト教の迫害者から熱烈な布教者に生まれ変わった(『新訳聖書』「使徒言行録」第9章)。尾高の「回心」は何によってもたらされたのだろうか。

①N響(1991)、BBCNOW(1995)、札響(2012)、大阪フィル(2019)
②1999年に英国エルガー協会からエルガー・メダルを授与されたことの根拠の一つ。都響でも2021年3月15日に交響曲第1番を、2023年5月29日に交響曲第2番を指揮した。

◆ BBCNOWと共に

 尾高の英国との縁は1980年代半ばにさかのぼる。尾高が常任指揮者に就任して10年目の東京フィルは、1984年4月24日から6月4日まで、52日間全28公演という長期のヨーロッパ・ツアーを行った。メインの曲目はブラームスの交響曲第1番、ドヴォルザークの交響曲第8番、チャイコフスキーの交響曲第6番《悲愴》、ショスタコーヴィチの交響曲第5番、シューマンのチェロ協奏曲(独奏/堤剛)、グリーグのピアノ協奏曲(独奏/舘野泉)などである。しかし、このツアーの訪問先に英国は含まれていなかった。
 ところが、意外な形で英国との接点が準備されていた。ドレスデンにおける公演のゲネプロで尾高の指揮ぶりを見ていたのが、BBCウェールズ交響楽団(1995年にBBCウェールズ・ナショナル管弦楽団〔BBC National Orchestra of Wales〕と改称/以後BBCNOWと略記)の事務局長ジョン・ブラウンリーだったのである。尾高の才能に惚れ込んだ彼から、まもなく客演の依頼が届く。
 しかし、当時の尾高は英国の音楽にもオーケストラにも関心がなかった。若き日にウィーンで指揮法の大家ハンス・スワロフスキー(1899~1975)のもとで修業した尾高は「BBC交響楽団は知ってたけど、BBCウェールズというのは知らなかった。(中略)何となく返事を出し渋っていたんです」(『音楽の友』1991年4月号「続・世界を舞台に」:文/すえのぶ・みち)
 気乗りしない尾高の背中をこのとき押したのは、恩師の渡邉曉雄である。「先生も一度指揮したことがあって、小さいオケだけど、とってもいいオケだよとおっしゃってくださって、それならという気持ちが固まったんです」(同上)
 渡邉は英国のオーケストラの水準の高さとクラシック音楽界の活況を熟知していた。40代にさしかかろうとしていた尾高が視野を広め、レパートリーを増やすためにも、本格的な他流試合が必要と考えたのであろう。小澤征爾(ボストン響音楽監督/在任1973~2002)や若杉弘(ケルン放送響首席指揮者/在任1977~83)ら日本人指揮者の欧米における活躍が注目され始めていたことも、尾高への打診の背景にあったかもしれない。そして、当時低迷気味だったBBCNOWは、活を入れてくれる指揮者を求めていた。
 渡邉の勧めもあって1986年に尾高はBBCNOWに客演し、翌1987年から95年まで8年間音楽監督を務めた。着任時にオーケストラの弦を20人増やし、2管から3管編成に拡充、演奏水準を大幅に向上させた。ロンドンの夏の音楽祭BBCプロムナード・コンサート(以下プロムス)には音楽監督になった翌年の1988年以来BBCNOWを率いて30回以上も出演している。ヨーロッパ諸国はもとよりロシア、北米、そして日本へも足を延ばした。尾高のもと、BBCNOWの名は世界の音楽地図にしっかりと載ったのである。
 いっぽうBBCNOWの実力が認められると、BIS、シャンドス、ニンバスといったレーベルとの録音も始まった。中でもリヒャルト・シュトラウス作品集、チャイコフスキーとプロコフィエフの《ロメオとジュリエット》、ラフマニノフの交響曲・ピアノ協奏曲全集(独奏/ジョン・リル)、グラズノフの交響曲全集、グバイドゥーリナ、シュニトケ、ルトスワフスキらの作品集、エルガーの交響曲第1番と《序奏とアレグロ》は高く評価されている。BBCNOWをレコードの世界に本格的にデビューさせたのも尾高の大きな功績である。退任後も尾高は桂冠指揮者としてこんにちまでBBCNOWに度々客演している。
エルガー:交響曲第1番(都響スペシャル/2021年3月15日/サントリーホール)
©Rikimaru Hotta

◆ 音楽の国ウェールズ

 ところで、尾高が赴いたウェールズとはどのようなところなのだろうか。わが国で英国またはイギリスと呼ばれる国の正式名称は「グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国」である。イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドという4つの国で構成されている。イギリスという名称が連合王国における多数派・主流派であるイングリッシュ(イングランド人)に由来するためか、英国人=イングランド人と誤解されやすい。しかし、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの人々は英国人(英国籍)ではあるが、イングリッシュではない。いまここで連合王国の込み入った歴史に立ち入る紙幅はないが、主流派のイングランド人に対する、他の3つの「国」の人々の反発や対抗意識にはただならぬものがある。
 ウェールズ人(英語ではウェルシュWelshと呼ばれる)も例外ではない。ウェールズ人はアングロ・サクソンではなく、ケルト人の血を引く古い民族である。ウェールズはブリテン島の中西部に位置し、首府は南部のカーディフ。人口が310万のため、経済的な理由もあって連合王国からの政治的な分離独立は考えていない。しかし、文化ナショナリズムは盛んである。スコットランドと北アイルランドでは、本来はイングランド人の言語である英語が日常語になっている。しかし、ウェールズは完全な2言語地域で、義務教育では英語のみならずウェールズ語が必修であり、公文書もすべて英語とウェールズ語である。イングランドからウェールズ領内に入ると、道路標識や駅名プレートにまで2言語表記が徹底している。
 そのウェールズが、クラシック音楽の分野で誇るものが3つある。カーディフ国際声楽コンクール(Cardiff Singer of the World)、ウェールズ・ナショナル・オペラ(Welsh National Opera, WNO)、そしてBBCNOWである。ウェールズはこれまでに数々の名歌手を生んできた。マーガレット・プライス、ギネス・ジョーンズ、ブリン・ターフェルといった名前を知らないオペラ・ファンはいないであろう。尾高とプロムスで共演して大好評であったアン・エヴァンズもウェールズ人である(後述)。ポピュラー・ミュージックの分野でもトム・ジョーンズという大スターがいる。
 WNOは際立ったスター歌手こそいないが、アンサンブルの水準の高さで知られ、本拠地カーディフのみならず、ウェールズとイングランドの各地を巡回し、エディンバラ音楽祭(スコットランド)にもしばしば出演する。ここから巣立って、バイロイト、ウィーン、ミラノ、ニューヨークなどの檜舞台で活躍する歌手も少なくない。1990年の来日公演におけるヴェルディ『ファルスタッフ』も高い評価を得た。1991年に尾高はWNOに招かれてリヒャルト・シュトラウスの『サロメ』を指揮している。

◆ エルガリアンからウォルトニアンへ

 ところで英国と縁ができた尾高が、初めてこの国の作曲家の作品を演奏したのはいつだったのだろうか。当然のことながら、BBCNOWの音楽監督となった尾高が英国の作曲家による作品を指揮しないわけにはいかなかった。この時から尾高の英国音楽の探究が始まる。それがまずエルガーから始まったのは驚くにあたらない。「英国の第2の国歌」と万人が認める《希望と栄光の国》(行進曲《威風堂々》第1番のトリオに由来)の作曲者であるエルガーはフィンランド人にとってのシベリウス、ノルウェー人にとってのグリーグ、チェコ人にとってのスメタナ、ポーランド人にとってのショパンの地位にある国民的な作曲家である。BBCNOW在任中に尾高は、まずエルガーの作品を次々にマスターしていった。
 「エルガーやウォルトンの音楽を知ったことは大きいですね。エルガーは、ブルックナーと並んで僕のライフワークの一つになりましたね」(『音楽の友』1995年11月号「スポットライト」:文/末延芳晴)
 いまや尾高のエルガー演奏は世界的に定評があり、未完の第3番を含む3曲の交響曲、《エニグマ変奏曲》、行進曲《威風堂々》、《弦楽セレナード》、《序奏とアレグロ》、《海の絵》、序曲《フロワッサール》、チェロ協奏曲などの主要曲をすべてレパートリーとしている。エルガーはイングランド人であるが、出身地のウスターシャー州を含むウェスト・ミッドランド地方はウェールズに隣接している。当然のことながら、古来、ウェールズと人やモノの往来が盛んだった。エルガーの代表作のひとつである、弦楽四重奏と弦楽オーケストラのための《序奏とアレグロ》のノスタルジーを喚起する主題は、「ウェールズのしらべ」。エルガーが静養中に北ウェールズで耳にした民謡である。尾高は実際にエルガーが生まれ育ったウスターシャーやヘレフォードシャーの地を訪れ、その風物にブルックナーが育ったオーストリアのアンスフェルデンとの近似性を感じる、と語っている。
 その尾高が近年、エルガーの作品と並んでしばしば取り上げるのが、ウィリアム・ウォルトン(1902~1983)の交響曲第1番である。1993年夏のプロムスでBBCNOWを指揮した演奏は好評を博し、『BBCミュージック・マガジン』の付録として発売された。日本国内でもこの曲を日本フィル(1992、2017)、東京フィル(2002)、関西フィル(2010)、大阪響(2012)、N響(2013)、藝大フィルハーモニア(2014)、名古屋フィル(2014)、札響(2018)、広響(2023)、大阪フィル(2023)と演奏しており、このたび都響がそのリストに加わる。
 2012年7月31日のプロムスではBBCNOWを指揮してヴォーン・ウィリアムズ、ディーリアス、アイアランドの作品を並べたオール英国プログラムを披露し、そのトリはウォルトンのオラトリオ《ベルシャザールの饗宴》であった。この曲は、都響(1994)、日本フィル(2010)、東京フィル(2013)、藝大フィルハーモニア(2016)とも演奏しており、交響曲第1番と並んで尾高が自家薬籠中にしている作品である。また、第1番に比べて晦渋で演奏機会が少ない交響曲第2番も、尾高は2015年8月にプロムスで指揮している。行進曲《王冠》も演奏会のオープニングにしばしばとりあげる。偉大なエルガリアン尾高はすぐれたウォルトニアンでもある。

◆ タダアキ・オタカの真骨頂

 1970年代の前半、小学校の音楽の時間に、髪を振り乱してオーケストラを指揮する若い指揮者をテレビの映像で見たのが、筆者の私的な「尾高ことはじめ」である。しばらくの間、髪をぼさぼさにして棒を振り回す指揮者ごっこがクラスで流行った。
 やがて意識的にクラシック音楽を聴くような年齢になって、はっきりと尾高の名前が脳裏に刻まれたのは、1988年10月24日の東京フィル第300回定期演奏会、東京文化会館に響いたブルックナーの交響曲第8番であった。長大な緩徐楽章はどんどん沈潜していき、終楽章はひたすら突進する激烈な演奏であった。このとき尾高はBBCNOWの監督になって約1年、よほど気力充実していたのであろう。英国音楽の本格的な探索も始まっていたに違いない。その後、尾高はエルガーとブルックナーの音楽の親和性をしばしば語っている。
 筆者はその後、縁あって1991年から97年まで英国に留学し、尾高/BBCNOWの全盛期を体験する幸運に恵まれた。BBCプロムスにおけるウォルトンの交響曲第1番(1993年7月27日)、マーラーの交響曲第6番《悲劇的》(同28日)、アン・エヴァンズを独唱者に迎えたワーグナー・ナイト(1994年8月3日)、ウォルトンのヴィオラ協奏曲とエルガーの交響曲第1番をメインに据えたオール英国ナイト(同4日)、ベートーヴェンの「第九」(1995年9月8日)、ウェストミンスター大聖堂③におけるブルックナーの交響曲第9番(1995年11月5日)などいずれも超弩級の名演であった。また、オーケストラの本拠地であるカーディフのセイント・デイヴィッド・ホールでの尾高/BBCNOWの演奏をBBCラジオでしばしば耳にした。むろん、英国作品のみならずシューマン、ブラームス、マーラー、シベリウス、ラフマニノフといった幅広いレパートリーであった。「タダアキ・オタカ」は英国のクラシック音楽愛好者の間では、すっかりなじみ深い名前となっていた。
 尾高が赴任するまで、BBCNOWの評価は決して高くなく、筆者の知るイングランド人には「なぜわざわざ金を払ってまで、あんな下手な楽団を聴きに行くのか?」と、ウェールズ人が憤死しそうな発言をする人もいた。尾高がBBCNOWを率いて英国内外でウェールズの名を高からしめたことは、彼らの自尊心を大いに満足させたに違いない。多くのウェールズ人およびクラシック音楽を愛好する英国人全般にとって、尾高は日本と日本人のシンボルとなっている。
 英国への日本の文化使節、イングランドへのウェールズの音楽大使、そして日本と世界における英国音楽の使徒。それが尾高忠明である。

③ロンドンのカトリック司教座。英国国教会のウェストミンスター寺院とは別。1995年11月5日は偶然ながら「ガイ・フォークス・ナイト」(火薬反逆事件の日/17世紀初頭の国王ジェイムズ1世爆殺未遂事件の記念日で、花火が盛大に打ち上げられる)と重なり、演奏中に花火の閃光がステンドグラス越しに堂内に飛び込み、爆発音が盛んに聴こえるというハプニングがあった。
CD
【CD】
エルガー:交響曲第1番/序奏とアレグロ

尾高忠明指揮 BBCウェールズ・ナショナル管弦楽団
〈録音:1995年5月30、31日〉
[BIS/KKCC2193]
*現在は4種を数える尾高忠明によるエルガーの交響曲第1番のうち、最初にリリースされたCD。ジャケットには左から時計まわりにヘレフォード、ウスター、グロスターの大聖堂が描かれている。毎年7月、この3都市の持ち回りで開催されている音楽祭スリー・クワイア・フェスティヴァルのメイン会場であり、音楽祭と大聖堂はエルガーの自己形成に大きな影響を与えた。