Essay
エルガーと4人の英国王たち
等松春夫 Haruo TOHMATSU(政治外交史・比較戦争史/政治と音楽)
はじめに
古来、学芸とりわけ上位文化(high culture)の発展には、後援(patronage)が不可欠であった。むろん、大前提として芸術家自身の才能と精進があってのことであるが、芸術家が創作活動に専念でき、作品が世に広まった背景には、作品の価値を理解し、物心両面の支援を惜しまない社会的地位の高い人々がいた。その最たるものが王室である。
英国の国民的作曲家エドワード・エルガー(1857~1934)が世に出ることができたのも、英国王室の後援あってのことだった。どのようにエルガーは王室に縁ができ、その作品の数々は王室といかなるつながりがあったのだろうか。本稿ではエルガーと接点のあった4人の君主にちなむ作品を取り上げてみたい。
英国の国民的作曲家エドワード・エルガー(1857~1934)が世に出ることができたのも、英国王室の後援あってのことだった。どのようにエルガーは王室に縁ができ、その作品の数々は王室といかなるつながりがあったのだろうか。本稿ではエルガーと接点のあった4人の君主にちなむ作品を取り上げてみたい。
エドワード・エルガー
尚武と寛容:ヴィクトリア女王と《カラクタクス》
エルガーが誕生した1857年、英国はヴィクトリア女王(1819~1901/在位1837~1901)の時代であった。ヴィクトリアが誕生した1819年、日本は江戸後期の文化文政時代。女王が崩御した1901年には、明治政府が日露戦争を見据えて英国に同盟締結を打診していた。ちなみに、ロンドン留学中の夏目漱石(1867~1916)は女王の葬列を沿道で見送っている。
ヴィクトリア女王(1895年)
60年を超える長い治世に、ヴィクトリアが君臨する英国は地球上の陸地面積と人口の4分の1を支配する世界帝国となっていた。1897年、英国に空前の隆盛をもたらした女王の即位60周年が国家的な行事として盛大に祝われた。50周年のゴールデン・ジュビリーを超えたので、「ダイヤモンド・ジュビリー(Diamond Jubilee)」と呼ばれる。この祝賀を記念して多くの音楽作品が書かれた。
ジュビリーにちなむ作品を書いた作曲家は、アーサー・サリヴァン、ヒューバート・パリー、チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォード、アレグザンダー・マッケンジーなど多岐にわたるが、現在でも時折演奏されるのはエルガーの《帝国行進曲》(1897)、カンタータ《聖ジョージの旗》(1897)と《カラクタクス》(1898)である。エルガーはジュビリー当時、ウェストミッドランド地方で多少知られている作曲家に過ぎなかった。また、これらの作品は王室や政府からの委嘱によって作られたのではない。《帝国行進曲》と《聖ジョージの旗》はジュビリー関連の祝祭音楽の需要を見込んだ楽譜出版社からの委嘱であった。
一方、《カラクタクス》はリーズ音楽祭運営委員会からの新作委嘱であった。カラクタクスは紀元1世紀に実在した先住民ブリトン人の族長。ブリテン島に侵攻したローマ帝国軍に果敢に抵抗するが、武運拙く捕らわれ、ローマに連行される。時の皇帝クラウディウス(BC10~AD54)の前に引き立てられたカラクタクスは、何ら弁明せず、自らの命と引き換えにブリトンの民に自由を与えてくれるよう、クラウディウス帝に訴える。カラクタクスの高潔さに打たれたクラウディウスはカラクタクスを助命し、ブリトンの民に自由を与え、ローマ文明の恩恵に浴させてやった。
この物語が、5人の独唱、混声合唱、管弦楽によって約100分にわたり演奏される。血沸き肉躍る戦い、森の中の逍遥、敗北の屈辱と自己犠牲の精神が描かれる。エルガーの筆は冴え、ワーグナーの楽劇ばりの雄渾な作品に仕上がった。
この作品はローマに立ち向かったカラクタクスを讃えるのみに終わらない。カラクタクスは捕えられた後、結局はローマに己と一族の運命を委ねる。そしてローマはカラクタクスをローマに留めたうえ一定の自由を与える。――これは当時の広範な社会層の英国人が抱いていた帝国支配の自己像であった。大英帝国は「野蛮人たち」に法と秩序を与え、文明の恩恵に浴させる。抑圧ではなく威信と合意によって異民族は英国の支配を受け入れる。堅忍不抜のカラクタクスと寛大な賢帝クラウディウスは、ヴィクトリア朝英国の時代精神である「尚武」と「寛容」を象徴していたのである。全曲の終結部ではローマの衰亡と未来におけるブリテンの興隆が高らかに歌われる。ここには現在の大英帝国がいにしえのローマ帝国をしのぎ、威信と合意による文明の帝国になったという自負が込められている。
現在の価値観から見れば、独善的な帝国主義の発露であるが、1898年10月5日のリーズ音楽祭における初演は好評であった。作品はヴィクトリア女王に献呈が受け入れられ、いわば「王室御用達」作品となった。ダイヤモンド・ジュビリーの熱気が冷めやらぬ1898年からの数年間、《カラクタクス》は英国各地の合唱音楽祭で頻繁に演奏された。ヴィクトリア女王の治世の最末期1899年から1900年にかけて《エニグマ変奏曲》(1899)、管弦楽伴奏歌曲集《海の絵》(1899)、オラトリオ《ゲロンティアスの夢》(1900)の成功で、エルガーの名声は全国に広がるが、その露払いを果たしたのが《カラクタクス》であった。
1899年10月20日、スコットランドにある離宮バルモラル城に滞在していた女王は、《海の絵》を初演した名歌手クララ・バット(1872~1936)を召し出し、同曲を歌わせている。ラジオもレコードもインターネットもまだない時代、作曲家が世に出るには、とにかく作品が公の場で演奏されることが必須であった。国民の敬愛を一身に集めていたヴィクトリア女王が作品を御前演奏させた、という風評は、英国の音楽界でエルガーの知名度を高める上で絶大な効果があったのは言うまでもない。
ヴィクトリア女王(1895年)
ジュビリーにちなむ作品を書いた作曲家は、アーサー・サリヴァン、ヒューバート・パリー、チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォード、アレグザンダー・マッケンジーなど多岐にわたるが、現在でも時折演奏されるのはエルガーの《帝国行進曲》(1897)、カンタータ《聖ジョージの旗》(1897)と《カラクタクス》(1898)である。エルガーはジュビリー当時、ウェストミッドランド地方で多少知られている作曲家に過ぎなかった。また、これらの作品は王室や政府からの委嘱によって作られたのではない。《帝国行進曲》と《聖ジョージの旗》はジュビリー関連の祝祭音楽の需要を見込んだ楽譜出版社からの委嘱であった。
一方、《カラクタクス》はリーズ音楽祭運営委員会からの新作委嘱であった。カラクタクスは紀元1世紀に実在した先住民ブリトン人の族長。ブリテン島に侵攻したローマ帝国軍に果敢に抵抗するが、武運拙く捕らわれ、ローマに連行される。時の皇帝クラウディウス(BC10~AD54)の前に引き立てられたカラクタクスは、何ら弁明せず、自らの命と引き換えにブリトンの民に自由を与えてくれるよう、クラウディウス帝に訴える。カラクタクスの高潔さに打たれたクラウディウスはカラクタクスを助命し、ブリトンの民に自由を与え、ローマ文明の恩恵に浴させてやった。
この物語が、5人の独唱、混声合唱、管弦楽によって約100分にわたり演奏される。血沸き肉躍る戦い、森の中の逍遥、敗北の屈辱と自己犠牲の精神が描かれる。エルガーの筆は冴え、ワーグナーの楽劇ばりの雄渾な作品に仕上がった。
この作品はローマに立ち向かったカラクタクスを讃えるのみに終わらない。カラクタクスは捕えられた後、結局はローマに己と一族の運命を委ねる。そしてローマはカラクタクスをローマに留めたうえ一定の自由を与える。――これは当時の広範な社会層の英国人が抱いていた帝国支配の自己像であった。大英帝国は「野蛮人たち」に法と秩序を与え、文明の恩恵に浴させる。抑圧ではなく威信と合意によって異民族は英国の支配を受け入れる。堅忍不抜のカラクタクスと寛大な賢帝クラウディウスは、ヴィクトリア朝英国の時代精神である「尚武」と「寛容」を象徴していたのである。全曲の終結部ではローマの衰亡と未来におけるブリテンの興隆が高らかに歌われる。ここには現在の大英帝国がいにしえのローマ帝国をしのぎ、威信と合意による文明の帝国になったという自負が込められている。
現在の価値観から見れば、独善的な帝国主義の発露であるが、1898年10月5日のリーズ音楽祭における初演は好評であった。作品はヴィクトリア女王に献呈が受け入れられ、いわば「王室御用達」作品となった。ダイヤモンド・ジュビリーの熱気が冷めやらぬ1898年からの数年間、《カラクタクス》は英国各地の合唱音楽祭で頻繁に演奏された。ヴィクトリア女王の治世の最末期1899年から1900年にかけて《エニグマ変奏曲》(1899)、管弦楽伴奏歌曲集《海の絵》(1899)、オラトリオ《ゲロンティアスの夢》(1900)の成功で、エルガーの名声は全国に広がるが、その露払いを果たしたのが《カラクタクス》であった。
1899年10月20日、スコットランドにある離宮バルモラル城に滞在していた女王は、《海の絵》を初演した名歌手クララ・バット(1872~1936)を召し出し、同曲を歌わせている。ラジオもレコードもインターネットもまだない時代、作曲家が世に出るには、とにかく作品が公の場で演奏されることが必須であった。国民の敬愛を一身に集めていたヴィクトリア女王が作品を御前演奏させた、という風評は、英国の音楽界でエルガーの知名度を高める上で絶大な効果があったのは言うまでもない。
ヴィクトリア女王 ダイヤモンド・ジュビリーの祝賀ポスター
希望と栄光の国:エドワード7世と《戴冠式頌歌》
1901年1月、ヴィクトリア女王が崩御。皇太子がエドワード7世(1841~1910/在位1901~10)となる。エルガーの代表作の多くがこの王の治世に生まれた。《威風堂々》第1・第2番(1901)、序曲《コケイン》(1901)、《戴冠式頌歌》(1902)、オラトリオ《使徒たち》(1903)と《神の国》(1906)、交響曲第1番(1908)、ヴァイオリン協奏曲(1910)を書き、短い治世の後、国王が崩御すると交響曲第2番(1911)を「故エドワード国王陛下の想い出に」献げている。
エドワード王は《威風堂々》第1番の有名な旋律がお気に召し、宮中にエルガーを召して「歌詞をつけてはどうか」と提案した。曲折を経てこの旋律は、有名な合唱曲《希望と栄光の国》となるが、その間にもう一つのステップがあった。1902年6月に予定されていた国王の戴冠式を祝うために書かれた《戴冠式頌歌》である(王が虫垂炎の手術を受けため戴冠式は8月に延期された)。第1曲「導入曲/王が戴冠したまわんことを」、第2曲「王妃/古代の諸王の娘」、第3曲「英国よ、自問せよ」、第4曲「聞け、神聖なる天空で/ただ心が純粋になれ」、第5曲「平和、麗しき平和よ」、第6曲「終曲/希望と栄光の国」から成る30分余りの作品。3人の独唱者、大規模な合唱と管弦楽がときには華々しく、ときには荘重に王室の来歴と帝国の使命を歌い上げ、新国王の戴冠を寿ぐ。
以来《戴冠式頌歌》の第1曲と第6曲は歴代の英国王の戴冠式で必ず演奏されてきた。そして、終曲から派生した合唱曲《希望と栄光の国》は、毎年夏にロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで開かれるプロムナード・コンサートの最終日を飾り、「第2の国歌」と呼ばれるほど英国民の間に定着した。
戴冠式の翌々年、1904年3月14日から16日まで「エルガー・フェスティヴァル」が、ロンドンのコヴェント・ガーデン歌劇場で3日間にわたり行われた。《ゲロンティアスの夢》、《使徒たち》、《エニグマ変奏曲》、《コケイン》、《海の絵》など、演奏会の全曲目がエルガーの作品で固められ、演奏を担ったのはハプスブルク帝国出身の巨匠ハンス・リヒター(1840~1916)指揮のハレ管弦楽団と合唱団である。リヴァプール・フィルと並んで英国最古の歴史を誇るマンチェスターのハレ管弦楽団は、名実ともに当時の英国のトップ・オーケストラであった。
ひとりの英国人作曲家の作品のみで、このような規模の音楽祭が開かれたのは英国音楽史上、前例がなかった。音楽祭にはエドワード7世とアレクサンドラ王妃(1844~1925)も臨御し、最終日の演奏会ではエルガー自身の指揮で新作の演奏会序曲《南国にて(アラッシオ)》が初演された。そして、同年8月の叙勲においてエルガーは国王から騎士(Knight)に叙され、「ミスター・エドワード・エルガー」から「サー・エドワード・エルガー」となった。
エドワード7世は日本とも縁の深い国王で、王位継承早々の1902年1月には日英同盟が締結されている。英国はライバルのロシア帝国の東アジアにおける勢力拡張を牽制するため、長年の外交原則であった「光栄ある孤立」を捨て、日本を同盟相手に選んだ。そして日本はこの同盟を後ろ盾にして日露戦争(1904~05)を戦い抜き、勝利をおさめる。日本の勝利は英国でも外交上の成功と評価され、同盟は1923年まで継続した。日英関係が空前の友好モードにあったエドワード7世の時代、日本の外交当局に音楽の素養のある人がいればエルガーに依頼して、《日英同盟行進曲》が生まれていたかもしれない。
エドワード王は《威風堂々》第1番の有名な旋律がお気に召し、宮中にエルガーを召して「歌詞をつけてはどうか」と提案した。曲折を経てこの旋律は、有名な合唱曲《希望と栄光の国》となるが、その間にもう一つのステップがあった。1902年6月に予定されていた国王の戴冠式を祝うために書かれた《戴冠式頌歌》である(王が虫垂炎の手術を受けため戴冠式は8月に延期された)。第1曲「導入曲/王が戴冠したまわんことを」、第2曲「王妃/古代の諸王の娘」、第3曲「英国よ、自問せよ」、第4曲「聞け、神聖なる天空で/ただ心が純粋になれ」、第5曲「平和、麗しき平和よ」、第6曲「終曲/希望と栄光の国」から成る30分余りの作品。3人の独唱者、大規模な合唱と管弦楽がときには華々しく、ときには荘重に王室の来歴と帝国の使命を歌い上げ、新国王の戴冠を寿ぐ。
以来《戴冠式頌歌》の第1曲と第6曲は歴代の英国王の戴冠式で必ず演奏されてきた。そして、終曲から派生した合唱曲《希望と栄光の国》は、毎年夏にロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで開かれるプロムナード・コンサートの最終日を飾り、「第2の国歌」と呼ばれるほど英国民の間に定着した。
戴冠式の翌々年、1904年3月14日から16日まで「エルガー・フェスティヴァル」が、ロンドンのコヴェント・ガーデン歌劇場で3日間にわたり行われた。《ゲロンティアスの夢》、《使徒たち》、《エニグマ変奏曲》、《コケイン》、《海の絵》など、演奏会の全曲目がエルガーの作品で固められ、演奏を担ったのはハプスブルク帝国出身の巨匠ハンス・リヒター(1840~1916)指揮のハレ管弦楽団と合唱団である。リヴァプール・フィルと並んで英国最古の歴史を誇るマンチェスターのハレ管弦楽団は、名実ともに当時の英国のトップ・オーケストラであった。
ひとりの英国人作曲家の作品のみで、このような規模の音楽祭が開かれたのは英国音楽史上、前例がなかった。音楽祭にはエドワード7世とアレクサンドラ王妃(1844~1925)も臨御し、最終日の演奏会ではエルガー自身の指揮で新作の演奏会序曲《南国にて(アラッシオ)》が初演された。そして、同年8月の叙勲においてエルガーは国王から騎士(Knight)に叙され、「ミスター・エドワード・エルガー」から「サー・エドワード・エルガー」となった。
エドワード7世は日本とも縁の深い国王で、王位継承早々の1902年1月には日英同盟が締結されている。英国はライバルのロシア帝国の東アジアにおける勢力拡張を牽制するため、長年の外交原則であった「光栄ある孤立」を捨て、日本を同盟相手に選んだ。そして日本はこの同盟を後ろ盾にして日露戦争(1904~05)を戦い抜き、勝利をおさめる。日本の勝利は英国でも外交上の成功と評価され、同盟は1923年まで継続した。日英関係が空前の友好モードにあったエドワード7世の時代、日本の外交当局に音楽の素養のある人がいればエルガーに依頼して、《日英同盟行進曲》が生まれていたかもしれない。
エドワード7世とアレクサンドラ王妃(1902年の戴冠式の公式ポートレイト)
帝国の栄光:ジョージ5世と《インドの王冠》
1910年5月、10年足らずの在位でエドワード7世が崩御。短いエドワード時代が終わり、皇太子がジョージ5世(1865~1936/在位1910~36)として王位を継いだ。第一次世界大戦、アイルランド独立戦争、自治領と植民地の自立要求、選挙権の拡大、世界大恐慌、ヨーロッパにおける全体主義の台頭、と難問山積の大帝国をジョージ5世は治めていかねばならなかった。
そのような中、即位して間もない王が行ったのがインド訪問である。インドは英国にとって最重要の植民地であった。17世紀以降、東インド会社のムガール帝国への経済進出に始まり、紆余曲折を経てインド大反乱(1857~58)を鎮圧した後、1877年以降は英国王がインド皇帝を兼ねる体制となった。
ダーバー(Durbar)とは、本来はムガール帝国時代に皇帝や藩王たちが臣下を謁見する儀式をさした。英領時代は英国王がインド皇帝に即位する戴冠の儀式となり3回行われたが、1回目と2回目のダーバーに際してヴィクトリア女王とエドワード7世はインドを訪問しなかった。しかし、1911年12月に行われた3回目のダーバーにジョージ5世はメアリー王妃(1867~1953)をともなって臨御する。12月7日から16日にかけて、デリーで延べ50万人以上が参加する式典が挙行され、14日には5万名の兵士が参加する閲兵式が行われた。また、ダーバーに合わせてカルカッタ(コルカタ)からデリーへの遷都が宣言された。
本格的な映画撮影が始められた時代であり、ダーバーの様子は映像に収められて英本国と帝国各地で広く上映された。ロンドンではウェストエンドの劇場やミュージック・ホールでダーバーの映画に合わせて小楽団が音楽を付け、弁士のナレーションで見せるショーが流行した。そのウェストエンドに近く、トラファルガー広場に接するのが1904年に開場した座席数約2,500の劇場ロンドン・コロシアムである。このブームに目を付けたコロシアムは、1912年1月、エルガーにダーバーにちなむ劇場作品を依頼する。こうして作られたのが、仮面劇《インドの王冠》(1912)である。第1部「インドの諸都市」と第2部「皇帝万歳 !」から構成されている。
「母なるインド」、「インドの主要都市」、「東インド会社」、「英国の王権」などが仮面を付けた演者によって擬人化されて登場し、約70分にわたりナレーションとセリフと音楽で英国のインド統治の理念が描かれる。「母なるインド」のもとにボンベイ、ベナーレス、ハイデラバード、アグラなどの諸都市が呼び集められ、その過程でインドの歴史が回顧される。遅れて来たカルカッタとデリーが首位を争うが、英国の王権を擬人化した「聖ジョージ」の裁定でデリーが新しい首都とされ、諸都市も同意する。最終場面では英国国歌《神よ、王を守り給え》が高らかに奏され、インドが大英帝国と一体となって繁栄することが歌われる。
《インドの王冠》は1912年3月11日から4月末にかけて約7週間、1日2公演が行われ、一部はエルガー自身が指揮した。作曲者の知名度とロンドン中心部の繁華街にあるコロシアムの立地の良さもあり、約12万人が観劇した。純粋な商業公演であったが、《インドの王冠》は、デリー・ダーバーと英国のインド統治の正統性を人々に再認識させる機能を果たした。なお、《インドの王冠》の管弦楽部分を抜粋した5曲から成る組曲は、時折オーケストラ演奏会でも取り上げられている。
ジョージ5世の治世にエルガーは数々の栄誉を授けられた。1911年に「メリット勲章」(文化勲章に相当)、1924年に「王室音楽師範」、そして1931年の「準男爵位」である。王室音楽師範とは17世紀に起源を有する宮中の官職で、王室と国家の音楽を司る、音楽家として最高の地位である。また、準男爵とは騎士階級と貴族階級の中間にある身分で、音楽家としてこの栄誉を受けたのはエルガーが初めてであった。
ジョージ5世は、若き日の裕仁皇太子(後の昭和天皇 1900~89/在位1926~89)にも強い印象を与えている。1921年3月から9月まで半年間ヨーロッパ諸国を歴訪した裕仁皇太子は、5月7日から30日まで英国に滞在した。ウィンザー城ではヴィクトリア女王とエドワード7世の墓所に献花し、バッキンガム宮殿ではジョージ5世夫妻から歓待された。英国滞在中、裕仁皇太子は、大衆民主政治時代の立憲君主のあるべき姿についてジョージ5世から親しく学び、後年に至るまでジョージ王を範と仰いでいた。
そのような中、即位して間もない王が行ったのがインド訪問である。インドは英国にとって最重要の植民地であった。17世紀以降、東インド会社のムガール帝国への経済進出に始まり、紆余曲折を経てインド大反乱(1857~58)を鎮圧した後、1877年以降は英国王がインド皇帝を兼ねる体制となった。
ダーバー(Durbar)とは、本来はムガール帝国時代に皇帝や藩王たちが臣下を謁見する儀式をさした。英領時代は英国王がインド皇帝に即位する戴冠の儀式となり3回行われたが、1回目と2回目のダーバーに際してヴィクトリア女王とエドワード7世はインドを訪問しなかった。しかし、1911年12月に行われた3回目のダーバーにジョージ5世はメアリー王妃(1867~1953)をともなって臨御する。12月7日から16日にかけて、デリーで延べ50万人以上が参加する式典が挙行され、14日には5万名の兵士が参加する閲兵式が行われた。また、ダーバーに合わせてカルカッタ(コルカタ)からデリーへの遷都が宣言された。
本格的な映画撮影が始められた時代であり、ダーバーの様子は映像に収められて英本国と帝国各地で広く上映された。ロンドンではウェストエンドの劇場やミュージック・ホールでダーバーの映画に合わせて小楽団が音楽を付け、弁士のナレーションで見せるショーが流行した。そのウェストエンドに近く、トラファルガー広場に接するのが1904年に開場した座席数約2,500の劇場ロンドン・コロシアムである。このブームに目を付けたコロシアムは、1912年1月、エルガーにダーバーにちなむ劇場作品を依頼する。こうして作られたのが、仮面劇《インドの王冠》(1912)である。第1部「インドの諸都市」と第2部「皇帝万歳 !」から構成されている。
「母なるインド」、「インドの主要都市」、「東インド会社」、「英国の王権」などが仮面を付けた演者によって擬人化されて登場し、約70分にわたりナレーションとセリフと音楽で英国のインド統治の理念が描かれる。「母なるインド」のもとにボンベイ、ベナーレス、ハイデラバード、アグラなどの諸都市が呼び集められ、その過程でインドの歴史が回顧される。遅れて来たカルカッタとデリーが首位を争うが、英国の王権を擬人化した「聖ジョージ」の裁定でデリーが新しい首都とされ、諸都市も同意する。最終場面では英国国歌《神よ、王を守り給え》が高らかに奏され、インドが大英帝国と一体となって繁栄することが歌われる。
《インドの王冠》は1912年3月11日から4月末にかけて約7週間、1日2公演が行われ、一部はエルガー自身が指揮した。作曲者の知名度とロンドン中心部の繁華街にあるコロシアムの立地の良さもあり、約12万人が観劇した。純粋な商業公演であったが、《インドの王冠》は、デリー・ダーバーと英国のインド統治の正統性を人々に再認識させる機能を果たした。なお、《インドの王冠》の管弦楽部分を抜粋した5曲から成る組曲は、時折オーケストラ演奏会でも取り上げられている。
ジョージ5世の治世にエルガーは数々の栄誉を授けられた。1911年に「メリット勲章」(文化勲章に相当)、1924年に「王室音楽師範」、そして1931年の「準男爵位」である。王室音楽師範とは17世紀に起源を有する宮中の官職で、王室と国家の音楽を司る、音楽家として最高の地位である。また、準男爵とは騎士階級と貴族階級の中間にある身分で、音楽家としてこの栄誉を受けたのはエルガーが初めてであった。
ジョージ5世は、若き日の裕仁皇太子(後の昭和天皇 1900~89/在位1926~89)にも強い印象を与えている。1921年3月から9月まで半年間ヨーロッパ諸国を歴訪した裕仁皇太子は、5月7日から30日まで英国に滞在した。ウィンザー城ではヴィクトリア女王とエドワード7世の墓所に献花し、バッキンガム宮殿ではジョージ5世夫妻から歓待された。英国滞在中、裕仁皇太子は、大衆民主政治時代の立憲君主のあるべき姿についてジョージ5世から親しく学び、後年に至るまでジョージ王を範と仰いでいた。
デリー・ダーバーにおけるジョージ5世とメアリー王妃
おわりに:エリザベス王女と《子供部屋》
1936年1月、ジョージ5世が70歳で崩御。皇太子エドワードが後を継ぎエドワード8世(1894~1972/在位1936)となるが、離婚歴のある米国人女性ウォリス・シンプソン(1896~1986)との恋愛問題のため1年足らずで退位を余儀なくされる。そのため、本来は王になるはずではなかったエドワードの弟ヨーク公爵がジョージ6世(1895~1952/在位1936~52)として即位した。映画『英国王のスピーチ』(2010)のモデルであり、後のエリザベス2世女王(1926~2022/在位1952~2022)の父君である。
そのジョージ6世がまだヨーク公爵であった1930年8月に、次女マーガレット(1930~2002)が誕生した。王女の誕生を祝し、王室音楽師範としてエルガーが公のふたりの王女エリザベスとマーガレットのために作曲したのが、管弦楽のための組曲《子供部屋》(1930)である。フルートやヴァイオリンのソロが活躍するチャーミングな佳曲。翌1931年6月にエルガー自身が指揮した演奏会で初演され、そのときは5歳のエリザベス王女も臨席した。おそらくこれは王女の初めての本格的な音楽体験であっただろう。幼い日のエリザベス女王は歴史的な大作曲家と直に接していたのである。
ヨーク公爵(後のジョージ6世)夫妻、エリザベス王女、マーガレット王女
主要参考文献
Elgar: An Anniversary Portrait (Bloomsbury Publishing, 2008)
Michael Kennedy, Portrait of Elgar (Clarendon Press, 1993)
Diana McVeagh, Elgar the Music Maker (Boydel Press, 2007)
J.B. Priestly, The Edwardians (William Heineman, 1970)
Jane Ridley, Bertie: A Life of Edward VII (Chatto & Windus, 2012)
君塚直隆『ヴィクトリア女王-大英帝国の戦う女王』(中央公論新社、2007)
同 『ジョージ5世-大衆民主政治時代の君主』(日本経済新聞出版、2011)
同 『エリザベス女王-史上最長・最強のイギリス君主』(中央公論新社、2020)
半澤朝彦編『政治と音楽-国際関係を動かすソフトパワー』(晃洋書房、2022)
そのジョージ6世がまだヨーク公爵であった1930年8月に、次女マーガレット(1930~2002)が誕生した。王女の誕生を祝し、王室音楽師範としてエルガーが公のふたりの王女エリザベスとマーガレットのために作曲したのが、管弦楽のための組曲《子供部屋》(1930)である。フルートやヴァイオリンのソロが活躍するチャーミングな佳曲。翌1931年6月にエルガー自身が指揮した演奏会で初演され、そのときは5歳のエリザベス王女も臨席した。おそらくこれは王女の初めての本格的な音楽体験であっただろう。幼い日のエリザベス女王は歴史的な大作曲家と直に接していたのである。
ヨーク公爵(後のジョージ6世)夫妻、エリザベス王女、マーガレット王女
Elgar: An Anniversary Portrait (Bloomsbury Publishing, 2008)
Michael Kennedy, Portrait of Elgar (Clarendon Press, 1993)
Diana McVeagh, Elgar the Music Maker (Boydel Press, 2007)
J.B. Priestly, The Edwardians (William Heineman, 1970)
Jane Ridley, Bertie: A Life of Edward VII (Chatto & Windus, 2012)
君塚直隆『ヴィクトリア女王-大英帝国の戦う女王』(中央公論新社、2007)
同 『ジョージ5世-大衆民主政治時代の君主』(日本経済新聞出版、2011)
同 『エリザベス女王-史上最長・最強のイギリス君主』(中央公論新社、2020)
半澤朝彦編『政治と音楽-国際関係を動かすソフトパワー』(晃洋書房、2022)